シャニマスのノクチルのコンセプトは「透明感、そして爽やかさ」らしい。だが、この年になってしまうと透明な人間には爽やかなど微塵もなく滑稽さとみすぼらしさしか残らない。26歳にもなって自分が何者であるか?という問いに対して少しの回答も出せずのうのうと暮らしている。何かアニメとか見たところでネットに転がっているようなありきたりな感想を述べるだけだし、だからと言って自分が何かを発することもない。無味無臭の意見を述べる玩具に成り下がっている。透明とは何にも染まっていない無限の可能性を示すというわけではなく、何に染まることが出来なかった愚か者を揶揄する言葉ではないだろうか?
何色かに染まっていく時期は当の昔に過ぎたわけであって今から探し始めることに対してとても不快感を覚える。本やテレビとかでは成功者が物事を始めることに年は関係ない的なことを述べているが、実際彼らにはそれなりのバックグラウンドが既にあってそこからさらに発展させただけに過ぎないのである。要は自分の色が既に身体に色濃く塗られていて、そこでの経験を基にさらに新たな色を加えていくようなものである。そうして自身を鮮やかな色で仕立て上げていく。まっさらな自分には到底できない芸当である。結局、彼らは単に自分の成功を自慢をしたいだけであって参考にしてはならない。
透明ならせめて誰にも見えないであってほしかったと思う。そうすれば、周りと比較されることもなかっただろうし、一人で伸び伸びと暮らせたと思う。そして何より女子風呂覗きたい放題である。